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しるし

 この間、母親と一緒に叔母のお見舞いに出かけた。九十を過ぎた叔母はもう歩くことすらできなくなっていて、何ヶ月かに一度の割合で転院を繰り返しながら、今はある街の病院にいる。訪れてみると、看板が出ていなければ普通の貸しビルなんじゃないかとも思えるような、こぢんまりとした病院だった。
 面会時間に合わせて病院の階段を上がると、女の人の痛い痛いと泣き叫ぶ声が廊下に響き渡っていた。誰もいない廊下に場違いなほど大きく響くその声は呪詛のようで、しかしどこか、駄々を捏ねる子供の泣き声のようでもある。その声の渦を、頭を低く、肩をすぼめて掻き分けるように部屋番号を辿ってゆくと、果たしてその声は、叔母の声であった。

 それ以来、例えば絵を描きながら、酩酊しながら、就寝前の寝床の中で微睡みながら、あの叔母の泣き声がふと耳元に蘇る。暗いところから突然ぼこりと沸き上がってきて、耳を撫ぜ、中空へと消えてゆく。そんな時は、ただじっとその声に身を竦ませて、歯を食いしばってやり過ごす。それは恐怖であり、畏怖であり、それから祈りでもある。あの病院の、あの病室で、今頃叔母はどうしているだろうか。お見舞いに行ったとき、あの後、泣き止んだ頃合いを見計らって入った病室で、叔母はずっと昔のことばかりを話していた。銀座で祖父にアイスキャンデーを買って貰ったこと。それがとてもうれしかったこと。小学校の時、クラス全員で叔母の家に遊びに来たときのこと。結局のところ、深く記憶に残るのはいつだってほんの些末な出来事なのだろう。ほんとうに僕はこの人について何も知らないんだと思って、泣いたって仕方がないとわかっていても構わず熱くなる目頭を必死に堪えていたら、それを見た叔母が、「あんたはやさしすぎるね」といって、ふふふと力なく笑った。その笑い方は、快活だったときと同じ、独特なあの笑い方だった。

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