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蒟蒻と応用

 完全地デジ化以来五年ぶりに、テレビが映るようになった。すっかりテレビのない生活にも慣れ、特に必要とも思っていなかったテレビを今さら購入するに至った最大の理由は実は先日も触れたスプラトゥーン(ゲーム)だったというのはここだけの話にして、今住んでいる家は古い一戸建てで、屋根にはテレビアンテナもない。工事をするなら自腹でやらなければならないが、わざわざお金を払う気もさらさらない。だから最初はゲームさえ出来ればテレビは映らなくていいや、と考えていたのだが、いざテレビが家に来てみるとなんだか急に勿体なく思えてくるのは不思議なもので、あれこれ調べるうちにネットで売られている 1500円の簡易アンテナを見つけて、そんなに安いならと騙されたと思って買ってみるとあっけなく全てのチャンネルが映るようになり、いったいあの地デジアンテナ工事の狂想曲はなんだったのか、やはり今度の電力自由化も最後の最後までどことも契約せずにひたすら待とうと心に決めたのだった。
 一度テレビが映ってしまうと、やはり何の気なしに観てしまうようになるもので、昨日も夕食後、皿洗いをする気にもなれずぼんやりとテレビを眺めていた。最近よく見かけるお笑い女芸人が二人、昔ながらの蒟蒻作りを体験する、というようなレポートだった。詳しい老人の指導の下で、顔を真っ赤にしながら 一生懸命蒟蒻を作っていた。掘り出した蒟蒻芋をすり下ろして灰汁と混ぜ、適当な大きさに纏めて茹でる。こうして文字にすると簡単そうだが、なかなかに手間の掛かる作業に見えた。半日がかりで作ったそれを、最後に田楽にしたり豚汁にしたりして、美味しそうに食べていた。僕らがスーパーでしか買ったことのない蒟蒻を、昔の人はそれぞれの家庭で芋から育て、こしらえて、それから調理していた。実に当たり前のことだけれど、今まで改めて考えたこともなかった。
  その時にふと、この構図がどこか自分にも通じて思えた。現代の僕たちはスーパーで蒟蒻を買ってきて、調理する。低カロリーの代名詞ともいえる特性や企業努力もあって、蒟蒻のレパートリーは百花繚乱。少しクックパッドで調べれば、昔ながらの味噌田楽や刺身蒟蒻はもとより、カルパッチョからカレー、とんかつ、 えっ、こんなものまで! と昔の人からすれば考えられないようなレシピが山のように掲載されている。しかしこれらの献立はすべて、蒟蒻が手軽にスーパーで手に入る、という前提で考えられていて、もしそれらの献立を一から蒟蒻を作るところから始めなければならなかったとしたら、恐らく誰もそこまで手の込んだ調理はしないのではないだろうか。蒟蒻の新しい可能性。蒟蒻の新しい活用。人々はまだ見ぬ地平を目指して、蒟蒻をアレンジし続ける。見たことも食べたこともない、斬新な蒟蒻料理の数々に人々は目を奪われ、こんなにおいしい蒟蒻料理はたべたことがない、と舌鼓を打つ。やがて蒟蒻は一つの要素となり、料理が美味しいことと蒟蒻が美味しいことは等しくなくなる。もう誰も蒟蒻の味なんか気にしないんだぜ。蒟蒻の特性を活かして需要にいかに応えていくかが大切なんだよ、と誰かが言う。正論だ。なにも言い返せない。それが当世の「賢さ」なのだろう。しかしそれでも尚、自分が作りたいものが蒟蒻そのものだったとしたら、どうだろう。例えどんなに美味しい蒟蒻が作れたところで、誰も見向きしなくて当然なのかもしれない。ところで僕にとっての美味しさは、他人にとっても等しく美味しいのだろうか。そもそも僕は、どこに向かって絵を描いているのだろう。頭の中でどんどん膨らむ考えを打ち消すように、リモコンでテレビを消した。もういい加減、食器を洗わなければならなかった。

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